色彩学は生理学

薄緑色の手術着やの壁などが最近増えているのは、白衣だと血の赤色が残像としてチラついて医者の目を疲れさせてしまうので、薄緑色でチラつきを吸収するため。
濃い色の包みのほうが、薄い色の包みより重く見える。
黒いごみの袋は収集作業員の疲労感を増す。
逆に贈り物は、濃い色の包みのほうが高級感につながります。

紙の発明者は中国の蔡倫

世界で最初に紙を発明した国が中国である。
それまでは甲骨、竹筒、木牘(木の札)に字を記していた。
その後「けん帛」(ケンパク 薄い絹織物)が利用された。
繭のくず糸から「絮紙(ジョシ)」が出来たがまだまだ庶民の手の届くものではなかった。
西暦105年後漢の皇帝 和帝に蔡倫は出来た「紙」を献上した。
この紙こそ世界最古の紙である。
日本初の洋紙工場は京都にあった東京遷都による産業の衰退を心配する明治天皇が残した資金で京都府が右京区梅津に建設。
桂川の水流を動力源として1879年に官営製紙工場「梅津パピールファブリック」の名で操業を始めた。
その後、民間に払い下げられ富士製紙や王子製紙、日本加工などの工場として稼動、1971年に閉鎖された。

現存する日本最古の活字

京都一乗寺にある圓光寺は現存する日本最古の「木製活字五万個」を有する。
慶長6(1601)年、徳川家康は足利学校第9代学頭・三要元佶(サンヨウゲンキツ)禅師を伏見に招いて、圓光寺を建立し、学校としました。
収蔵されている木製活字は、家康が活字工に作らせ、慶長4(1599)年に有力な頭脳の一人であった元佶禅師に与えたものです。
ガリ版の発明者は近江商人であった「捺染法」をヒントにガリ版を発明したのは滋賀県で生を受けた、堀井新次郎元紀と息子の新次郎仁紀 親子でした。
滋賀県蒲生町に「ガリ版伝承館」が有り、そこに当初のものも保存されている。

冷やかし

17世紀はじめ、江戸浅草の農家が再生紙を始めた「漉き返し」と呼ばれ鼻紙や落し紙に使われた。
古紙を水に浸して作ります。そのことを「冷やかす」といいました。
約2時間ぐらいかかります。
その間 時間つぶしに近所の遊郭吉原にでかけ、格子窓から手を振る女郎をからかって時間をつぶしていました。

赤貧

とても貧しいこと。
家計が赤字だから「赤」なのではない。
「赤」は色ではなく何もない状態を示す。
「赤裸々」「赤手(素手)」「赤地(丸裸の土地)」「赤貧洗うがごとく」洗い流したように何もない。

日本の生地の色に「48茶百鼠」

利休鼠は抹茶の緑が混ざったようなねずみ色で利休が愛した色
北原白秋の「城ヶ島の雨」の中に、利休鼠の雨が降る と一節がある。

ラベルは嘘をつかないって本当?!

ラベルというのは英語だ。
フランス語やドイツ語ではエチケットという。
発音はそれぞれの言葉で多少違うが、該当の言葉を英語読みにするとそうなる。 礼儀とか作法などと思われているが、正体を表すもの、あるいはその機会がエチケットなのだろうと思う。
だからラベルには嘘は書かないし、表示してあることを見れば正体がわかるようになっている。

安間宏見 著 「ワインの謎解き」新潮社
(Etiquette フランス語 その日の日課を書いた札(チケット)を貼ったことから)

シール ~SEAL~ の語源は印鑑だった!!

印、印章、封印、封緘紙のことであります。
この語はラテン語のSIGILLUMと同義で、押印するもの、(器具)すなわち印鑑、あるいは印それ自体をあらわすとされています。
ヨーロッパでは、封筒の封印に蝋をたらして封をしていた。
まだ蝋がやわらかいうちに刻印した木や、ガラスで押さえていたのではないでしょうか。
長野県諏訪の「ルネ・ラリック美術館」にある印章はそんなふうに、使ったのではないでしょうか。
余談ですが、ルネ・ラリックは、香水のボトルにガラスでラベルを造った われわれの先駆者です。

ラベル ~LABEL~ を辞書で引くと・・・・。

  1. 張り札、張り紙、付せん、荷札、ラベル、レッテル
  2. (人、流派などの特色を簡単に示す)符号、標語
  3. (辞書などで用法・専門語などを示す)表示、レーベル

ステッカー ~Sticker~ 粘り強い人???

裏に糊のついたマークや広告用の貼り札 刺す人、突き具、のり付きレッテル、粘り強い人、執拗な人、がんばり屋、stick突き刺す、貼り付ける、くっつける

百万陀羅尼経 現存する世界最古の印刷物

奈良時代、ときの天皇の勅命により百万基という途方もない数の木搭が作られた。
この“百万搭”が奈良の主な寺々におさめられた。
搭には穴がうがたれ陀羅尼経という経文が収納されていた。
この経文は現存する世界最古の印刷物といわれている。
今日では奈良・法隆寺にわずかにのこされているだけで、そのほとんどは散逸してしまっている。

絵画に書かれた最初のシール

オランダの画家フェルメールの描く《手紙を書く婦人と召使》には、画面手前 の床には、テーブルから落ちた印章と封印が転がっている。
(赤いものが、封蝋ではないかと思う。)
絵画に描かれた最初のシールではないでしょうか。

「ハンコ社会」 実印のない文書は証拠にならない!!

日本では印章制度が始まったのは奈良時代、大宝律令で唐の制度を採用し、朝廷の印が領布された。
戦国時代には威光を象徴し、織田信長の「天下布武」は特に知られる。
京印章は、漢代に確立した篆書の「漢印篆」が今に至るも主流で、天皇御璽も漢印篆だ。
庶民に印章が広まったのは明治以後のこと。
1872年(明治5年)、政府が出した「実印のない公文書は裁判上の証拠にならない」という1枚の布告が、現在の「ハンコ社会」をもたらす始まりとなった。

大相撲番付表 最後の人は本当に小さい文字なんだろうね。

大相撲番付表には、横綱から序の口まですべての力士の四股名、親方、呼び出し、若者頭、世話人などすべての人の名前が、縦55cm横40cmの紙にビッシリと書き込まれている。
その数およそ千人。力士名だけでも717人(平成13年秋場所)にものぼる。

千社札 最近密かにブーム! プリクラの次はこれ?!

千社札は、千社参拝の記念に、とする素朴な民間信仰の証という。 中世、上山上皇が岐阜県・谷汲村にある天台宗の寺 華厳寺(谷汲観音)に札を納めたことに始まるとされ、室町時代に流行、その後すたれたが、江戸時代・安永(1772-81)のころ、また流行した。 同札は、参拝者の名前や屋号、住所を記した小さな紙片又は木片。江戸では、安永のころ出雲松平氏の家臣・荻野喜内(鳩谷)が「鳩谷天愚孔平」と書いた札を近所の社寺に貼付(チョウフ)したといわれ、職人らにも遊楽の一つとして広まったらしい。 当初、札は墨で書いたが、後に木版刷、色刷りが出てきてデザイン、印刷に金を掛けるようになったことから、時の幕府が、札作りなどを禁止した。老中・水野忠邦が行った「天保の改革」(1841-43年)がそれだが、華美な風俗をただし、勤倹を旨とした幕府再建策は、あまりの過激さから後に失敗に終わった。 歴史は繰り返すではないが、明治に入って復活昭和の始めにはまたすたれた。

1991/6/10 京都新聞

暦 カレンダー 昔は気軽に持てなかった!?

暦とは「歴」が転じたもので、物事の経過を記録した書物のこと。 一年中の月日のほか、月の満ち欠けや、日の吉凶判断に関する暦注など、生活に 必要な実用的なことが日を追って記載されている。昔は、暦を所持していたのは土地の権力者だけ、暦で的確な農作業の予定を立て、人々に告げて動かしていた。 一般の人が気軽に暦を持てるようになったのは江戸時代という。 カレンダーの語源は「宣言する」を意味するラテン語「カレンダリウム」。古代ローマでは 新月が見えると祭司が「月が出たぞ。新しい一ヶ月の始まりだぞ」と告げたことから名がついた。日本には明治の初めに入り、昭和初期に浸透した。

笏(しゃく)

幅二寸、長さ一尺二寸、衣冠束帯に身を正す時、右手に持って容儀を整える。 もともと備忘用に文字を書いた紙を貼って持った具である。

わが国の「シール印刷の誕生」

  1. 明治45年(大正元年)当時、東京・四ッ谷大番町にあった「尚山堂」(現在の尚山堂とは無関係)が、ドイツのケーゼ社よりシール印刷機を輸入してシーリング・スタンプの製造を開始したのが始まりだとされている。 そのきっかけとなったのは、イギリスのジョージ五世の戴冠式に天皇陛下の御名代として伏見宮殿下が渡英する際に、宮内庁から贈り物の貼付シール用に外国製の見本を提示され、これと同じものを作るようにとの注文を受けたことによる。当時は200枚の注文に数千枚も印刷してのぞき加工をしてやっと納めたといわれている。
  2. 現在のような、剥離紙からめってすぐ貼れるシール(セルフラベル)は、昭和32年ごろから出始め、昭和36年NHKが、受信章に採用したことから普及した。それまでの受信章はアルミかステンレス板で、くぎで玄関や門標に打ち付けていた。(集金人が釘とカナヅチを持って歩かなくてもよくなった)

シール印刷77年誌より